2014年05月09日

台湾への旅(その9 総括)

今回の旅を終わるにあたって気になったことを2・3あげてみる。

・みやげ物屋の店員さんにしてもレストランにしても笑顔がないことである。
ただ事務的に受け答えをしているだけで、これでは日本のホテルに出稼ぎに来ている中国人とあまり変わりがないのではないか。
ヒョッとすると中国からの出稼ぎ連中かなと疑ったこともあった。

・ツアー会社が連れて行ったTaxFreeのお店や土産物屋は全般的に店員がしつこく付きまとい、日本でいうならば売上マージンで稼ぐデパートの派遣店員のようであった。
また値段も高く、街のスーパーで買った方がリーズナブルであった。

・私のつたない英語が全然通じないことである。
日本に来る台湾人は英語で十分意思の疎通ができるが、ホテルの従業員、故宮博物院のスタッフ然りであっ た。
東ヨーロッパは若干伝わりにくいとの印象はあったが、その他の欧州は問題もなく不便を感じなかった。
台湾は日本人観光客からウンカのごとく来る大陸からの客にシフトしていることは間違いがない。
そのうち日本人から飽きられてしまうかも・・・。

・中華料理の「鼎泰豊」のスタッフは良く教育されており、気持ちよく食事ができたが、その他の店については無表情な能面とやり取りしているみたいで、よい印象は持てなかった。

・ホテルについてはデラックスを売りにするだけあって、部屋は比較的広く水回りは綺麗で満足するものであったが、ホテルの朝食はバイキング方式で、料理の内容は殆ど同じで目新しいものはなし。
レストランの昼食・夕食はどこもメニューが同じでうまいものはなし。
「台湾おいしい旅」を謳っているわりには「おいしくない旅」だった。

・現地ガイドは片言日本語で中国的発音が多く、日本語としては聞き取れないことが多く理解した客による通訳が必要であった。
 台湾の歴史はおろか、名所旧跡の説明もなくただ見学場所の名前と次の集合時間をいうだけであった。
 ただ人柄が良いからみんな我慢をしていたが、アルバイトとはいえ、もうすこしガイドとしての訓練をしてから使うべきではないだろうか。

・女房の分を含め一眼レフ×2、デジカメ×2をバックパックいっぱいに準備し、風景・建築物等の見事さを期待したが、デジカメだけのスナップで充分であった。

・東日本大震災に人口2330万人の台湾から200億円を超える義捐金が寄せられ、それも民間からが主だったことに驚きそして日本に対する心意気に感謝の意を表したと思う。

全般を通して、食べることがメーンの「台湾の旅」であったことは確かであるが、あまり面白味のない旅であったのはツアー会社の企画に問題があったと思う。
“台湾すなわち美味しい中華料理”というステロタイプの方はあまり期待しないほうが良いと思う。
何となく不完全燃焼の台湾の旅でした。
            「おわり」
蒋介石の紀念堂.jpg

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2014年05月08日

台湾への旅(その8 久份の夜景)

九份(きゅうふん)の町は、基隆から南へ約10kmの山間にある坂道や階段の多い小さな町。山を背後に海に面した斜面に建つ家々、階段や薄暗い路地など、レトロな風情があふれる町だ。

 もともと9戸しかなかった小さな集落で、交通が不便なため品物を補充するときに毎回全戸分の9セットを買うので九份という名前が付いたという。
舊道(旧道)」バス停で下車し、観海亭に立ってみるのも一案である。
天気がよければ、町の全景と海が見渡せる。

セブンーイレブンの横の道が基山街。南北に延びた一番にぎやかな小径で、みやげ物屋やレストランなどが集まっている。基山街の西側、見晴らしのよい部分の少し手前にある石段が豎埼路。中腹あたりに映画『悲情城市』の撮影に使われたレストランがあり、「悲情城市」と書かれた看板が出ていて、今でも人気のある記念写真のポイントらしいが、残念ながらこの映画は観ていない。

少し先で交わる軽便路にも食堂、土産物屋が並んでいる。この3本の通りを中心に無数の小径が町中に広がり一歩路地へ踏み込むと古き九份の面影が残る。
夜景を眺めたレストランからは「千と千尋の神隠し」のモデルとなった家屋が見える。
この眺めは一見の価値あり。
九份の夜景を見ての帰り道、台北の夜景が非常に見ごたえがあった。

九份@.jpg

千と千尋.jpg
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2014年05月07日

台湾への旅(その7 衛兵の交替式と国立故宮博物院)

台湾には日本の靖国神社と同じように戦没者の慰霊のための忠烈祠がある。
そこには国民の関心を呼ぶための衛兵交替式のパフォーマンスがある。
その毘凛々しい姿には特に娘たちが騒ぐもの。
衛兵の交替式は英国のバッキンガム宮殿、イタリアのエマニュエル戦没者記念、
ギリシャの大統領官邸等で見てきたが、どの国の衛兵も気合が入っていて感動を覚える。
台湾の衛兵は180cm、イケメンで兵隊のエリートだそうだ。
1時間交替で立哨中は微動だにしないそうだが、交替直前はシビレがあったのか僅かながら
手と足を動かしていたのがばれた。
それでも日本では見られない風景なので、中国人の娘たちばかりでなく、日本の爺さん・
婆さんも写真をパチリぱちり

衛兵の交替式.jpg

台湾の国立故宮博物院は、台北市北部の士林区にあり、付近には高級住宅街が広がってい
る。この博物院には中華民国政府が台湾へと撤退する際に故宮博物院から精選して運び出
された美術品が主に展示されており、その数が合計6万件冊。 台湾南部の嘉義県にある台
湾高速鉄道嘉義駅の隣にアジア文化をテーマとした故宮南院が2015年の完成を目標に建設
工事が進められており、博物院の機能の分散化が図られている。

この博物院は、1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命における文
化財の組織的破壊から、貴重な歴史的遺産を保護するという役割を担ったが、同時に中華
民国政府が中国 (China) の唯一合法的な政府であることの象徴と、日本の統治から離脱し
たばかりの台湾において中華ナショナリズムを強調するための装置としても中華民国政府
に利用されていた。そのために現在では、早期の台湾独立を求める泛緑連盟勢力の一部か
ら「『台湾国独立』と引換えに故宮博物院の文物を紫禁城に返そう」という主張が出ている
が、実現の可能性はほとんど無いという。

この博物院の箱モノは壮大で見る者を圧倒するが、なかの展示物は6万点余りあると言い
ながら、それほど感動を与えていない。
われわれのGPは比較的早く入場したが、10分後には中国人観光客がぎっしりで、うっと
うしいだけの見学であった。
ガイドによると中国人の興味はここ一点だけで他にはあまり興味がないようだ。
この財宝は俺たち中国人のものという意識が強いのだそうだ。
大英博物館やルーブルなら何時間見ても厭きないが、中国のものは馴染まないのですぐに
飽きが来て、みやげものを買いに売店へ
子どもが大学時代東洋史学を専攻していたので、興味があるだろうなと思いながら故宮博
物院を後にした。
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2014年05月06日

台湾への旅(その6 鼎泰豊の小籠包、マンゴー)

台湾で美味しいものは何かと問われれば、鼎泰豊の小籠包、マンゴー、パイナップル、バナナと答えるであろう。
台湾人の間で、必ず名前が挙がる店が“鼎泰豊”外から小籠包を作るコックの姿が見られる。
台湾に来て愛想のない店員が多い中、ここだけは笑顔で対応してくれ、小籠包の肉汁が飛ぶことに気を使いバッグ等の保管ボックスのカバーをかけてくれたのには感激
ビール1本にも領収証をくれた。
いろいろな種類の小籠包があり、どれも美味しく初めて満足をした。
ところが現地ガイドさんに言わせると、台湾人にとっては味が薄くここは日本人の好みに合わせているそうである。台湾人はもっと味の濃い店に行くそうである。

鼎泰豊.jpg

高雄の街でたくさんの果物が屋台に並んでいた。
見たこともない種類の果物や食べたこともないものが試食用にあった。
試食用のものはあまり美味しくはなかったが、美味しいものはどうぞ買ってくださいと言うスタンス
マンゴー80元×2で日本円約600円
ホテルに帰ってから早速剥いて食べることにした。
ナイフは飛行機の昼食で出たプラスチックのナイフ、フォーク、スプーンのセットを取出し、例の格子状に切り、キュービック状にしてかぶりついた。
いつもは果物に関して私が優先権を行使し女房にはおこぼれがパターンであったが、これは本当に美味しかったので女房にも勧めた。
2人して無言で食べる姿は、幼いころの子供には見せられない姿であった。
勿論2個目も完全喫食
満足して眠りについた。
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2014年05月05日

台湾への旅(その5 台北 士林夜市散策)

士林夜市.jpg

台湾で一番有名で規模の大きな夜市が「士林観光夜市」                 
若者が集まるため映画館やファストフード店なども多い
「剣潭」駅から大東路とその脇に延びる道端の夜市は服や下着、アクセサリー、占いなどの店が集まっている。屋台が集まるフードコート「美食広場」は、新設された士林市場の地下にあるらしい。われわれが行ったのは金曜日ということもあり、身動きが取れないほどの人出。大半が中国人観光客だそうだ。

この夜市は通路上にも店を出している若者が多い。
彼らは無届の業者らしい。
車付の屋台(日本のショッピングモールの通路上に出してアクセサリー等を売っている
屋台をイメージ)や畳半畳のシート上に並べたTシャツを所狭しと売っている。
ところが私がケッ躓きそうになった路面の売り場を急に畳み始めたのだ。
これが有名な取り締まりに対して“30秒で片付ける屋台”らしい。
納得。
取り締まり側も心得たものでゆっくりした動作と入り口付近にとどまってなかなか前進し
ないのである。
その間にずらりと並んでいた違法屋台は近くの店屋の中にもぐり込んでいった。
これでは誰も捕まることはないのである。持ちつ持たれつとはこのことである。
ガイドが云っていたが、警官とは飲み友達になることが大事。
違反しても人間関係がものを言うらしいのだ。これが南国の取締らしい。
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2014年05月04日

台湾への旅(その4 中国人のマナー)

台湾は中国人の観光客でいっぱいである。
行くところ行くところ中国人がハバを利かせている。

中国人を見分けるにはポイントがある。
その1 当たりかまわず大声で叫びまくる。
その2 順番を守らない。
その3 挨拶はしない。
その4 バイキング方式の朝食はその場で食べる
    携帯ポットにジュースやウーロン茶を入れて持って行く。
その5 ホテルの備え付けは自分のもの(韓国人も同じ ホテル従業員の話)。
その6 当たりかまわずタンを吐き、ゴミはその場にポイ。

○出入国検査
 この検査は長い列を作り結構時間が掛かる。
 かなり後ろにいたはずの中国人がいつの間にか10人越え20人越えして遥か前方いる。これが常態。
○GPごとにガイドが説明していると、隣の中国人GPのガイドは隣に負けないように
さらに声高にしゃべる。
 ホテルのロビーでも周りに気を使うことはない。これは韓国人も同じ。
 すこしでも隙間があれば割り込んでくる。性別に関係なし。
○朝食のバイキング
 皿一杯に料理を取り、その場で食べ始める。
 びっくりしたのは北欧の旅をしたときのことである。
 皿にはいっぱいの料理、鶏のから揚げに手を伸ばしモグモグと食べ始め、口の中の小骨をその場に吐き捨てたのである。
 とても食べる気になれずその場を離れた。
○われわれのツアーは夜景を楽しんで、22時ごろホテルに到着
 23時半には眠りについた。
 01時ころ大声で叫びまくる集団があった勿論中国人である。15分ほど廊下で大騒ぎしてから静かになった。ところが05時20分ごろこの中国人たちが大声で叫びまくっている。
 我われ日本人のツアーは40分も早く起こされ、ホテルのモーニングコールを必要とはしなかったのである。

ところでこんな人たちが毎年20万人も移民してくる話が政府の有識者懇談会で検討されているそうだが、迎え入れてもよいものでしょうかね〜ぇ????
https://www.youtube.com/watch?v=2VELCEcnU6A&list=PLubSbhcjV7ICBWsc3-3HQXzpm_QiEPVPt

netで公開されている画像を借用しました。台湾で写したものではありません。
上海市の地下鉄駅の親子

中国人のマナー.jpg
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2014年05月03日

台湾への旅(その3 台湾の人々)

高雄(たかお)の市内観光をしていると昔懐かしい靴修理のおじさんがいた。
信号待ちの関係で、そばで待っていると、80前後と思われるお婆さんが流暢な日本語で話しかけてきた。
「日本の方ですか」
「はい 札幌から来ました。日本語がお上手ですね」
「私は、昔は日本人だったのですよ。すぐそこの小学校で日本語の勉強をしました」
いままで黙っていた実直そうなお爺さんが
「私は昭和3年生まれです 私は日本が大好きです」
するとお婆さんが
「この人は すぐそこの信用組合で組合長をしていました」
「そうですか 偉かったのですね」
お爺さんが進み出て
「日本のものは何でも素晴らしい。われわれとは民族の精神が違う」
「ありがとうございます。時間が来たのでこれで失礼します。どうぞいつまでもお元気で!」
我々はお二人と固い握手をしてお別れした。
お爺さんたちはいつまでも深くこうべを垂れてお別れをしていた。
時間があればいろいろなお話を聞いてみたかったなぁ、あのカクシャクとしたお爺さんと・・・。

台湾の街を歩いていると韓国人みたいに人工的な顔ではなく、どちらかといえば美形的とは言い難い娘さんが多いなか、20人に1人ぐらいはホットパンツをはいたスタイル抜群でビビアン・スー並みのかわいい子を見かける。
見慣れてくると中国人と台湾人が見分けられるコツがある。
強引な割り込みと周りに気を使うことがなく自分たちのだけの世界を作っている。
台湾人に紛れていると難しいが、海外旅行をしていると確実にわかる。
現地ガイドの話によると、私が見ていた娘さんたちの殆どは大陸から観光に来た中国人だそうだ。
どうりで 納得!

高雄の公園.jpg

張飛の廟.jpg


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2014年05月02日

台湾への旅(その2 日本人の知らない偉人達)

 20年前、高砂義勇兵の活躍に興味が引かれ、台湾の歴史について勉強したことがあった。
産経新聞が2004年7月に「高砂義勇兵慰霊碑に撤去の危機」と題して掲載し、「慰霊碑を守る会」が義援金を募集したことがあった。
その趣旨に賛同した職場の仲間150人とともに義捐金を送ったことがあった。

このときに鳥山頭ダムを造った八田與一、飛虎将軍と呼ばれた杉浦茂峰飛行兵曹、村を守った警察官の森川清治郎の話を知ったのであった。

○八田與一 
 台湾の小学校の教科書にも登場する日本人に八田輿一がいる。
彼は1886年石川県金沢郊外の地主の家に生まれた。
東京帝国大学の土木工学を卒業、 1910年に台湾総督府の技師として渡台。当初は衛生事業の推進に当たったが、1914年に任された桃園の治水工事の手腕が評価され、鳥山頭ダムの建設計画を命ぜられた。

 台南から北東へ約30km地点に広がる嘉南平野は、もともと干ばつや水害の多い不毛な土地だったが、数々の困難を乗り越え、1930年に鳥山頭ダムを完成させた。

 この間、 31歳の時に郷里の医師の娘である16歳の外代樹と結婚。
やがて八田は戦争の激化に伴い、フィリピンヘの赴任を命じられ、1942年に長崎からフィリピンに向かう大洋丸に乗船。九州沖です米軍の潜水艦に雷撃され、命を落とした。日本の敗戦後の1945年9月1日、妻の外代樹は八田が心血を注いだダムの放水口に身を投じ、八田のあとを追った。
5月8日の八田輿一の命日には、感謝祭が行われているという。  
日本統治時代に行われた大規模な濯漑整備によって台湾最大の穀倉地帯となったのである。

八田與一

○杉浦茂峰
 弱冠20歳の杉浦茂峰飛行兵曹の話である。
彼は米軍機との空中戦で被弾し、パラシュートで脱出することも可能だったが、そのまま戦闘機を操縦し、家屋のない田園地帯に墜落した。住民を犠牲にすることを避けるため、自らの命を捧げたのである。
住民は彼の献身を称える廟を作った。台湾の人々に飛虎将軍と名付けられ、信仰の対象となっている。
その廟は”飛虎将軍廟”といわれ、台南市同安路にあるという。

○森川清治郎 
 命をかけて村人を守ろうとした警察官の森川清治郎の話である。
明治末年頃台湾に赴任した警官は、徴税の促進にもあたった。森川清治郎は、巡査として赴任した村の子供たちに私費で本を買い読み書きを教えるなど、村人の生活に配慮するような人だった。歳入の欠如に悩んだ台湾総督府は、新たに漁業税を設け徴収に当たらせたが、森川巡査は当地が大変貧し<督税は不可能であるとたびたび役所に報告していた。それにもかかわらず、重ねて徴税を命令された彼は、徴税の不可能なことを上申したが聞き入れられず、かえって住民を扇動したと叱責された。森川巡査はこの叱責に抗議し、また村の窮状を訴え自決を遂げた。
 このことを知った村人は彼を祀ったが、のちに村に病気が蔓延した際、警官姿の霊が村人の枕元に立ち、手を洗い清潔な水を飲むように教えてくれた。その後もこの霊は数人の枕元に現れ、そのお告げを守った村には病死する者がいなくなった。村人は森川巡査をおおいに敬い、立派な廟を建て参拝するようになったという。
それが嘉義県東石郷副瀬村にある”富安宮”である。
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2014年05月01日

台湾への旅(その1 台湾との関わりと霧社事件)

2年ぶりの海外旅行
今年は秋までいろいろと諸行事が詰まっており、女房は来年にしませんかと・・・。
私は8月末までならば比較的FreeTimeを確保できるので、手短のところにと台湾行を決めた。
実は台湾では1999年9月21日に921大地震といわれるマグニチュード7.6の大地震があり、死者:2,415人、負傷者:11,306人、行方不明者:29人の大きな被害を出したことがあった。
我が家では親日国である台湾の被災に対して義捐金と激励のお手紙を送ったことがあった。
すると台湾の新聞社から礼状と女房が書いた手紙が掲載された新聞が送られてきた。
これにいたく感激して我が家はすっかり台湾のファンになった経緯がある。

日本統治時代の高砂族
高砂族の娘たち.jpg

先日WOWOWで霧社事件を題材にした「セデックバレ」第1部 太陽旗、第2部 虹の橋が放送された。これは単なる反日映画ではなく史実に沿った台湾統治時代の姿が映し出されており、高砂族の生き方を知る内容のある映画であり一見の価値があると思う。

霧社事件とは
1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本統治時代後期における最大規模の抗日暴動事件。霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(集落)の男たち300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校で行われていた小学校・公学校・蕃童教育所の連合運動会を襲撃。日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。現地の警察には霧社セデック族の警察官が2名おり、彼らは事件発生後にそれぞれ自殺。その後の日本軍の反攻により、蜂起した6社の約1000人が死亡し、生存者約550人は投降した。
http://www.u-picc.com/seediqbale/about.html

4月某日台湾のエバー航空で一気に台湾へ
4時間の空の旅ではあったが、途中気流の乱れが激しく、“オイオイ、大丈夫か〜ぁ!”状態が長かったが無事桃園空港へ到着
そのまま台中のホテルへ 140km 2時間
第1日目は終了

台中市内観光
宝覚寺〜数少ない仏教寺院で、日本統治時代に台湾中部で亡くなった日本人の遺骨が安置されているということでお参りさせてもらった。
ここは金色の弥勒菩薩が日本の大仏と同じように祀られていた。
我々のGPは35名ほどいたが、日本人の慰霊碑に関心を持ったのが約半数
あとの半分は金色の弥勒菩薩の写真を撮ったらさっさとバスに乗っていた。
それも50~70歳の爺さん・婆さんに慰霊の心なし
posted by 木漏れ日 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする