2015年05月27日

「続・竹林はるか遠く」健気な3兄弟の生きざま

2013年09月20日にUPしたブログ「竹林はるか遠く」は戦争の悲惨さを家族愛で乗り切るhttp://blog.seesaa.jp/cms/article/edit/input?id=375333191
11歳だった作者のヨーコは第二次世界大戦の終戦時に体験した朝鮮半島北部の羅南(らなん)から京城(けいじょう)、釜山(ふざん)を経て日本へ帰国する際、朝鮮半島のソ連軍と呼応した朝鮮共産党軍の兵士や暴徒と化した一般な朝鮮人によって、北から南へ逃走中の日本人は片っ端から殺害され、日本人の遺体は金歯を引き抜かれ身ぐるみ剥がされ、日本人の土地家屋財産などが奪われ、日本人の若い女を見つけると草むらや路地裏に引きずってでも強姦されていたとする決死の体験や、引揚後の苦労が描かれており、戦争の悲惨さに果敢に立ち向かう母娘の姿描かれていた。

「続・竹林はるか遠く」
この続編は引揚者という身寄りもなく、住むところもなく極貧の中にも人間として気高く生きる道を貫く姿が見事に描かれている。
14歳になった擁子は、まともな文房具も娘らしい華やかな服装もできず同級生にはさげすまれ、いじめに遭いながらも患者さんの湊さん、用務員の内藤さん等の温かいサポートにより京都の嵯峨野女学校を首席で卒業する。
この間、お世話になっていた増田夫妻殺しと放火容疑をかけられたり、教室では泥棒の濡れ衣を着せられたり、部落民じゃないかという差別にあったりしながらも川島家の誇りを胸に立ち向かっていくのである。

私が小学生の頃、ボロボロの服を着て、風呂も入っていないらしく悪臭のする子供がいた。
弁当箱にはジャガイモと梅干だけ、それさえも持たせてもらえない子は、昼休みには校庭のブランコや砂場で時間つぶしをやっていた。惨い話です。
子供というものは残酷なもので、「臭いからあっちへ行け!」などと心無い言葉を平気で吐いたものです。

 この物語を読んでいると、3兄弟が個性的に描かれており、この時代“長幼の序”がハッキリしていて兄弟でも上の者に絶対の権限があったのだ。
兄の淑世(ひでよ)は「俺が川嶋家の家長だ! 黙って従え!」
姉の好(こう)は「口答えは許さない、これは命令です!」等
擁子(ようこ)は一方的に命令に従うだけであった。
これにはさすがのヨーコも反発するがそれらは全て理にかなっており、妹に対する深い愛情の顕れであったのだ。

 我が家は5人の男兄弟
長兄は進学のためはるか遠く家を離れており、長兄と弟としての濃密な記憶はない。
一番怖かったのは父親で口答えでもしたら軍隊仕込みの鉄拳が飛んでくる。
次兄には男兄弟のトップとして威厳があり、実力行使をやられるので逆らうなんて考えても見なかった。
3兄は次男の次に威厳も力もあった。
4兄とは身体の大きさでは負けるが年齢が近いせいか、血だらけの喧嘩をしたことがある。
しかしケンカの原因は全て自分にあり、エネルギーに充ち溢れていたのかもしれないね。
兄たちはみんなまじめで優等生ばかりであったが、わたしはいつも先生から「少しは兄たちを見習え!」と怒られていたものである。
 このように序列がハッキリしていたということは、上に立つものは下にいるものに対して指導的な立場に立たざるを得ず、自ずと行動を律することになる。
ヤンチャをやれるのは一番下のバッチである私だけであった。

 学校においても、先生はクラスを仕切っていたガキ大将である私に対して、こういうことをやれとか、誰々の面倒を見ろとか色々と指示をされた。
それでクラスはうまくまとまっており、私を中心に一致団結をしたものである。

この「正続・竹林はるか遠く」は、アメリカでは優良図書に選ばれ中学校用の副読本として多くの学校で使用されている。
日本においても戦争というもの、人間の尊厳というもの、混乱期における優しさと醜さ、家族の絆を教える秀逸な本と思う。
これは一読の価値があると思い紹介した。
posted by 木漏れ日 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月24日

辛うじて保ったガキ大将のプライド

小学校時代は所謂ガキ大将といわれ、常に取り巻きに囲まれ、いつも気を張った生活をしていた。
勉強も喧嘩もそれなりで、一番大事なのは仲間を守るための度胸と気迫、
常に腹の据わったところを見せなければならなかった。

 ある日、仲間4・5人と川遊びに行くことになり、学校の裏を流れる当別川に行った。
石投げをしているうちに泳ごうと言うことになり、
以前にも書いたが腰にぶら下げた手ぬぐいとズボンのベルトがあれば準備OK.
私の泳ぎのレベルは犬かきもどき程度。
急な流れに乗ってバタバタ手足を動かしておれば、20〜30mは泳ぐと言うより流れていくのだ。

どこまで泳げるか競争することになった。
1人ずつ川岸から飛び込んでいき距離を競うのだ。
さあ困った、私は一度も飛び込んだ経験がない。
ここで俺は飛び込めないとは立場上口が裂けても言えない。
一応ポーズだけは平然として仲間に気合を入れていたが、内心失敗したらどうしようとそればかり・・・。
 
 いよいよ私の番が来た。
私は腹を決めて思い切り高く飛び込み直角に頭から入水をした。
頭から突っ込んだのは良いけれど、川底の石に頭を打ってしまったのだ。
一瞬クラクラっとしてそのまま波に呑まれて川下に流されていった。
 途中で意識を取り戻し浅瀬にたどり着いた。
仲間がたどりついて「おい! 大丈夫か!」と声をかけた。
「どこまで行けるか試したんだ!」と私。
「そうかぁ、おまえはやっぱり凄いよなぁ!」と仲間たち。
辛うじてガキ大将の威厳を保った私でした。
正直に言うと、ほとんど溺れており、浅瀬に引っかかっていただけだったのだ。
posted by 木漏れ日 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月23日

危うく溺れるところだった!

火野正平の”とうちゃこ”を観ていたら、視聴者からのお手紙に小学生の頃、利根川に掛かる坂東大橋下流100m付近で泳いでいたら流されて危なく溺れるところであったとのこと。
それで思い出したのが、我が幼少の頃の話である。

私が育った北海道の田舎町にはシャケのふ化場跡があり屈斜路湖から流れ出る釧路川の流れは結構急であったが、そのふ化場跡だけは急カーブしていて結構深いが淀んだ溜まりになっていた。そこは子供たちの格好の水遊び場であった。

当時は街にプールもなく水泳パンツも一般的でなく、ズボンのベルトと日本手ぬぐいで褌(ふんどし)を作り遊び終わったら、その手拭いで身体を拭き、綺麗に畳んでベルトに刺しハンカチ代わりとしたものである。
ただ北海道の川遊びは水が冷たく紫色になった唇と鳥肌の立った身体を震わせながら河原でたき火をして温まったものである。

私たちの水泳能力は真面な泳法を知っているわけではなく、深いところにもぐって綺麗な石を取ってきたり仲間でじゃれあったりして楽しんだのだ。
ある時流れの急なところに挑戦して仲間に良いところを見せようとしたのが誤りで、果敢に挑戦したのは良いけれど流れが速くて岸へ泳ぎ着けないのである。そのうち浮き沈みしながら水をガブガブ飲みながらどんどん下流に流されていった。付近に大人は居ず遊び仲間がワーワー騒ぐだけ・・・。
そうこうしているうちに150〜200m先に橋が見えてきた。
私は得意の犬かきもどきで必至に泳ぎつづけ、ようやく橋げたにしがみ付いたのである。
わが町の中学校にプールができたのはそれから3・4年後のことであった。
posted by 木漏れ日 at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする